2019年02月16日

としのみとおうつり...共通語だった

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過日の大根10本分の切り干しが晴天続きのうちに綺麗に干し上がり保存袋に入れて冷蔵保存した。
1部は「おとしのみ」と思い小分けにしてておいた。
「おとしのみ」今の今まで方言だとばかり思っていたのだったが、何と広辞苑にもある言語だったのでびっくり。
まさかの発見だった「おとしのみ」子どもの時分から慣れ親しんだこの言葉も今では一部のお年寄のみが理解する
言語かも知れない。

「としのみ」漢字では「歳のみ、年の実」と書き
@人から物を贈られた時、その器物に入れて返すもの。おうつり。
A「年の餅に同じとある。

兄嫁や姉達にはその仕来りが今でもなごり、先日お裾分けのひじきの煮物の器にティッシュペーパーが一つ
入れてあり、ほのぼのとした。かつて内輪の慶事などの後の馳走を器や盆にのせてご近所に配って歩くのは
子どもの役割でありあった。当時では珍しかった旅行などのみやげは当然だったが、おはぎや、餅を搗いた
時などもご近所に配る習慣があった。「お父さんが、伊豆に行ってきましたのでお口汚しですがどうぞ」母に
二三度口真似させられてご近所周りをする。「あ〜れ、ありがとうねぇ、ちいっと待っててね」と言われ玄関先で
待っていると必ず「いいもんをもって来てくれてありがとうっけね、ろくでもないお歳の実だけどおかあさんに
よろしくね」と、どこの家でも同じ挨拶があり、歳の実もさまざま、半紙5枚、海苔2枚、飴玉5つ、マッチ一掴み
みかん等々、各家々で収穫した果物や野菜なども多く、母は切り干し大根をよく使っていたものだ。
半紙1帖の歳の実はとびっきりのお裾分けの時であり、滅多なことでは使われなかった。
中学生になった頃の歳の実には化粧石鹸一つ、マッチもキャラメルもバラでなく小箱入などに移り変わった。

...と言う様に、盆や器が空で返されることは無かった。今のように、ポリ袋は無論のこと100円で
買える容器も無い時代の、美しい慣習である。

過日の句会の折に「皆さんに頂いたお茶菓子のお礼にお歳の実を...」と言って小分けした切り干し大根を差し
出すと「おとしのみ?いったい何のこと?」と異口同音に聞かれたから「皆さん辞書を引いてみて」...中の1人が
「そうそう、そうだった」と懐かしげに言われた。当地と近距離に育ったからであろう。しばし「歳の実」の話題で
盛り上ったのだった。

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こけしの顔もさまざま、これは「たこ坊主」と命名されている「おどけ顔」のこけし
丈一尺五分ほどの作家物の作品であり、古くからあるこけしを再現したものだと聞いている。

AIの支配及ばず春の月   ふきのとう   私は妙に気に入っている句だが、不評の一句

posted by ふきのとう at 09:37| Comment(3) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

食器戸棚

独身時代から器には私なりの感心があり、飯茶碗や湯飲み、箸などは気に入りの物を自分で購入していた。
「あまり高い物は買わないで、粗相するとこまるから」と兄嫁に言われたが「お姉さん、瀬戸物は壊れるものよ、
弁償しろなんて言わないから大丈夫」と答え、実にそんなものと受け止めていたのだが、母から「自分の食べた
器は自分で洗いなさい」と言われそれ以来、結婚するまで実行していた。
結婚してから料理をするようになり、上手く出来ればできるほど器が気になり、家計費の中から捻出し器を
購入した。気に入った器を手にすることはブラウスや、セーターをを買うよりも、ときめきは大きかった。
そんなわけで「ブラウスを買ったつもり」「セーターを買うのを止めて」の器の購入が続く。
octpusさんにお答えのつもりで、有りの儘の我が家の食器戸棚を公開しよう。いい点だけをご覧頂きたい。

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縦100cm横165cmと比較的小振りの食器戸棚である。
当然所有している器の全てを収納できるはずのない大きさだから、今は冬に登場する器を中心に、通年使用
出来る器のみを収納し、5月からは夏に使う白磁の器やガラス器を中心に入れ替えをするのも私の年中行事の
一つだ。刺身なども夏はガラス器に盛り、サラダは通年使える器を使う。従って季節外の器はコンテナに入れ
物置に仕舞っているからこの大きさの食器戸棚で日常の収納に困ることは無い。
忘れてならないものに「湯飲み茶碗」があり、これも季節のもの以外はコンテナに入れ物置に仕舞っている。
良く登場する湯飲みは食器棚には入れず⇓の様に籐籠に入れて布巾を掛けキッチンの出窓に置いている。
日常は1人または2人で来る友人達だから2客づつで充分間に合う。

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正月用以外の日常に使用する塗りもの類は最上段に、これは通年食器棚納まっている。
桜の描かれた器は3月から4月半ばまで、正月用の碗や盆など一切を纏めてコンテにに入れ物置に。
長年このように暮らしてきたが、家事の達人たちから見ればう少し手際のよい収納方法もあるに違いなく
参考書も多く有るようだが長い習慣であり、どおにもならないと言ったところだ。
      (夜に写したため、ただでさえ苦手なカメラが冴えない)

春禽の光こぼして立ちにけり    ふきのとう







posted by ふきのとう at 20:08| Comment(6) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月12日

反省...

と、そんな訳で一昨日の反省もあり「どうせ1人なんだから洗う手間を考えて一つの皿に」などと怠惰な考えを
外し、あり合わせの夕飯だが、器の数を増やした。

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おから  有田焼
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ひじき  赤津焼
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ごぼうのサラダ 波佐見焼1枚100円
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大根と葉の糠漬け 織部焼
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夫の作品の飯茶碗を使うことも多いが、kumiさんに倣って塗椀を使う。
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夫の作品の湯飲み、日常の湯飲みは夫の作品ばかりを使用している。
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少なくとも一昨年の6月まではこのよう整えていた。「器は料理の着物」魯山人の言うことは言い得ていて
おからもひじきも牛蒡のサラダも様になり「孫にも衣裳」夫が居たなら「やっぱり器は大事だね」と言ったに
違いない。盆のまま夫に進ぜ(この間遺影と話ながらお茶を飲む)その後ゆっくり食べた。そして私なりの
満足を得ることが出来た。

姿見に今日を装ふ春隣     ふきのとう

posted by ふきのとう at 10:22| Comment(12) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月10日

こだわりの器...回想録

陶に恋して
舌に読む陶土の機嫌春立てり
色淡き萩の御本手春しぐれ
佐太郎の薩摩黒物霾れり
囀りのくまなく降れり陶干場
土見せの楽の一文字あたたかし
水温む父子相伝の飛鉋
陶陽の在りし日の房冬ぬくし
水甕に残る五徳目夏来る
陶枕の呉須の山水昼深し
月白瓷盌の鎮もる梅雨の闇
秋深し陶の茶壺に耳二つ
月光を止め李朝の肌白し
濁し手の皿の余白よ虫時雨
秋深む備前徳利の海揚り
蛇窯の丹波立杭雪来るか
大井戸の稀の梅花皮冬深む
陶となる土の故郷帰り花
凍る夜の窯を攻めたる薪の束
廃窯に匣鉢の嵩なす夕時雨
貫入の音の幽けし霜夜かな

今は亡き〇〇先生から平成17年度石川桂郎賞への私の作品「陶春秋」に寄せて頂戴した手紙の一文に
「還元が出てくるのですから菊練り、釉薬の掛け具合など専門用語など駆使した方が良かった。選考する者は
それによって解らない用語は辞書を引き百科事典を展げて調べます。それが選者の務めであり、そこでまた
選者自身が成長するのですから」とあった。
菊練りは素地の空気を抜き、粘質を増すために荒練りの後に行う。釉薬の(上薬)掛け方は作品の形状に
より造り手が選択する。今回の特別作品には専門用語を配したが、頼り過ぎの感は否めない。

他人様を驚かすような料理は出来ないが、柄にもなく台所にいることが好きである。
洋風よりも和風好みではあるのだが、時として無国籍料理もあったりする。
と言えば格好良いのだがプロの料理を家で再現するに当たりどこかが違っていてどうにもならないが故の
無国籍が多い。この無国籍料理が厄介で家中のどの器にも調和せず、料理も皿も台無しとなり、無言で食する
羽目となるのだ。家人が作陶を始めた切っ掛けはこの無国籍料理を世に送り出すための手段のはずであった。
瀬戸の陶師に就いたのだが日常に使う焼物ではなく、主として茶道具専門の造り手てあった。
家で使用する器は茶陶の合間に大きさと形容、私好みの釉薬を選び焼いてもらう。

食卓上には陶器8割、磁器2割、またはその逆が調和の定義と言えよう。
季語「更衣」は衣服に限ったことではない、家庭内の設いにもあるように、ガラス器は勿論、陶磁器にも春夏秋冬が
有り、器の厚み、釉薬の色や掛かり具合、土の硬度、絵皿であれば図柄が季節感をもたらしてくれる。
日本人に於いて、飯茶碗や湯飲みは季節感を表す最たるものだ。春は土物のやや薄手の萩焼、夏は磁器の染付
秋は唐津であろうか、冬は赤津辺りの厚手が良い。箸には優しい造りであることは言うまでもない。
           (以上俳句結社誌掲載文のまま)

上記の句と文はその昔、結社の特別作品として掲載されたものだが、穴があったら入りたいほど大胆に
主観を述べているもので、先輩諸氏の批判もあったことだろうが直に受けた訳ではないからその後も
平然として今がある。この様に活字にしてしまった以上、該当する事柄を疎かには出来ない訳で、強いて
我が身を拘束することとなってしまったが自業自得であって、冥罰は素直に受けなくてはならない。

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春憂ふ古き句集の一頁      ふきのとう

posted by ふきのとう at 10:57| Comment(8) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月09日

ひとり鍋

春菊、白菜、もやし、しめじ茸、生き生きした緑色に惹かれてついつい買ってしまった青梗菜が冷蔵庫の
野菜室を狭めている。作り置きの「柚子ポン酢」も有るではないか「そうだ水炊きしよう」にわかに昼食は
水炊きにとなった。

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お気に入りの土鍋にあるったけの野菜を入れる。椎茸が無いっ!そう、味付けの椎茸でもいいやっ!ということに。

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〆はうどんと思っていたのだが野菜でお腹も満たされてしまったから明日の昼食にしよう。
いつもの豆腐も無ければ出汁を取るための蟹も鱈の切り身も無い、味の付いた椎茸は汁もよごれて今ひとつ。
初めて鍋ものに入れてみた青梗菜が殊のほか美味しいと感じただけだった。

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器に目をやればあろうことか、水の輪にメダカが泳いでいるではないか!これは良くない、実に怠惰な食生活だ。
夫が健在だったら許されないことだ「まあ、恥ずかしい、見てました?以後気を付けます!」と遺影にひと言。

ひとり鍋湯気のむかうに亡夫見ゆ     ふきのとう
posted by ふきのとう at 12:43| Comment(10) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月08日

スイートピーとハニームーン...夫の言い分

「スイトピーはスイートピー、ハネムーンはハニームーンだからね」
昨日花屋さんでスィートピーを見て想い出した事がある。
「スイートピーの和名は知らないけど、わざわざハネムーンなんていい加減な言い方をしないで新婚旅行って
言えばいいものを」が、夫の言い分、そして「無理して横文字を喋るな」とも。
以前ロスアンゼルス出身の高校生をお預かりした時も「いいね、いい加減な英語は話さないでねッ!」とも
言われた。果たして私が「マ.ク.ド.ナ.ル.ド」とはっきり言えばいうほど彼女は首をかしげるのだった。
結果「オカアサンハゼンゼン、オトウサンハハナセルノ」の印象を強く抱いて彼女は帰国した。

夫の姓は「スガワラ」であると疑いもせず結婚したのだったが、スガワラではなく正しくはスガハラであるからと
夫に言われ結婚したばかりの頃は自ら名乗る時「スガハラです」と言っていた。
或る日それがとんでもないことになったのだった。「はい、スガハラです」と電話口に出た私、相手は夫の兄だった。
「勝手に名字を変えてしまって、いいねッ!この家はスガワラだから、〇〇にきちんと伝えておくように」と今までに
ない口調で長兄に言われた。「歴史的にはスガハラが正しいのだから」と夫は譲らず、不満も多くあったようだが
「スガワラ」の方が調べもいいと思えたし、何よりも家長である長兄の言い分が正しいのだから
「あなたは好きにしてちょうだい、私はお兄さんに言われた通りにするわ」と言って以来子供達にもスガワラと言う
ように育てた。そんな過去もあって私は今もスイトピー、ハネムーンでで通している。
(夫は自分が独立したら「スガハラ」としようとかねがね目論んでいたようだったが不調に終わった)

時々夫に英語で話しかけられて戸惑う私に
「いいんだよ、無理して答えなくても、(自分が英語を)忘れないために言ったんだから」
「はーぁ、そうでございましたか」そして私は「そんなら私の居ない所でしゃべれよッ!」言葉にはしなかったが
内心馬鹿にされたようでムッとしたのはいつものこと。

日常テレビやラジオで耳にすることの多い外来語、問えば直ぐに教えてくれた夫が今は居ない、都合主義も
甚だしいが、辞書も引かず右から左へやり過ごし、意味の解らない外来語ばかりが増えた。

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4月下旬と言われた昨日の温かさ、日当たりのよいリビングで花たちも一斉に開花してしまった。

草萌の丘や少女の風になる   ふきのとう     大井川の長堤も草萌てそれまでの枯れ色も薄れつつある。

posted by ふきのとう at 09:03| Comment(6) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

落ち椿

起床してから朝ごはんを頂くまでの行動に時間的な乱れはなくほぼ一定している。
意識しているのではないけれど毎日同じことの繰り返しだから当然といえば当然のことだ。
雨さえ降っていなければ庭を一巡して落ち椿を集めて歩くこともその一つ。
年末に思いきり木丈も枝も詰めたから昨年ほどに花は見られないが13本の椿のなかのいずれかの
椿が落ちているのだ。
夫が黄泉に立った年の冬、それらの落ち椿を集めて香炉灰を作った時の自己満足が忘れられず、昨年も同様
今年もそうしたいと、落ち椿を集めて回ることは習慣になってしまった。

その中の1本は植えた覚えのない椿「折角芽生えたのだから花を見ようではないか」と育てて来た椿
今年こそ開花するのではと思ってはいたがその木の許に2つほど落ちていたのは「紅椿」だった。

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「まあっ!あなた「紅」さんだったのっ!」落ちていたふたつの花を拾い、ひと枝を切て夫の作品の一輪挿しへ。

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掃除機をかけ終えたところに携帯電話が鳴った。携帯電話の鳴るのは珍しい事「誰かしら?」
「〇〇です!〇〇にお花を買いに出掛けるんですけどご一緒しませんか?」
「まあっ!私あなたのこと思いながら掃除機をかけていたのよっ! 嬉しい!行きますいきます!」
「この偶然ナンタルチア!」と言いながら出かける支度をした。

その紅の投身のごと落ち椿      ふきのとう
posted by ふきのとう at 14:43| Comment(6) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする