2017年10月08日

納骨式

                残された者ともの
      或る日「ねえ?僕が死んだら寂しい?」と唐突な質問をされたことがある。
      「世の中に配偶者を失って寂しくない人がるといる思う?」と答えた。
      こう言った返事しか出来ない自分を反省している「寂しい、寂しい!」と言へばよいものを。
      その後、夫との提案で小さな仏壇を買った。何年経つだろうか、かなり前のことだった。
      材質は胡桃の無垢で、扉や位牌などに象嵌を施してある、高さ35cm横27.5cm程の
      厨子型仏壇を選んだのだった。同じ材質の位牌には、1人用と2人用があり、「一緒でいいじゃない」
      と夫がいうので2人の戒名を書くことの出来る、少し大き目なものに決めた。大き目とは言っても
      小さな小さな仏壇だから大きさもそれなりのものだ。そして「寂しい?」の質問には意味があった。
      陶芸を趣味としていた夫はその時、分骨用の入れものを拵えていて、「位牌だけ拝んでもらっても
      意味が無いから分骨して、君が来る時一緒に持って来てよ」と言うのだった。
      「死んでからなら、菰にでもに巻いて捨ててくれても構わない、生きているうちに大切にしてよ」
      が口癖だったことは家族の誰もが周知のこと。夫が亡くなって指定の箱を開けると、4個の茶入れ
      ほどの大きさのものが出てきた。夫も私も好きな「白萩」の釉薬が施されていた。
      念のため、お世話になる寺の僧侶に尋ねると「粗末に扱わなければ大丈夫です」と言はれ、夫の
      希望に沿い、火葬場に分骨を願い出ると、収骨の際、それはそれは丁寧に遺骨の一部を、小さな
      壺に収めてくれたのだった。

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      納骨式を済ませ、自宅の仏壇に位牌と共に収めたが「よかったじゃない、これなら母さん
      寂しく無いじゃないの」娘も息子も、孫たちもそう言った。そう、これからの私を見守って
      くれるのではないかと思っている。

      金属性のものは納棺出来ない為、眼鏡、腕時計、愛用の万年筆、が他の遺品と共に残された。
      納骨の際「〇〇寺さん、(私は寺名の後に「さん」を付けて呼ぶ)主人は眼鏡を持って行けません
      でしたがあちらで大丈夫でしょうか?困ったりしないでしょうか?」私の問い掛けに、「大丈夫!
      六文銭もお持ちですから、視力に有った眼鏡をあちらで買えますから」これには参列してくれた
      兄嫁、姉、甥、姪たちも大笑いした。万年筆は息子が持って帰った。    


      黄泉のこと吾に伝え来よ秋さくら      ふきのとう
      
      
      










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posted by ふきのとう at 16:33| Comment(4) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

1971 静岡へ

              田舎暮らしの始まり
    戸建でない住まいは、新築とは言へ子供には不自由が沢山あった。
    階段で遊びたくても隣への配慮で遊べない、夫が娘のために作った砂場も余所の子に占領されてしまう。
    娘は幼いために巻き込まれることもなかったが、子供同士のトラブルなどetc...。
    そんな日常を知った夫が小さな家だが静岡に建てる決心をしたのだった。
    私の両親、殊に父親は婿養子であったから「男が嫁の実家近くに家を建てるだなんて」と猛反対
    母は母で親が娘を近くに「呼び寄せた」と思われることは真っ平だと賛成しなかったが、何と言っても
    富士山の見える田園地帯を夫が気に入り、父に懇願して地主に掛けあってもらい、実現したのだった。
    単身赴任を覚悟だったから、初めの数ヵ月は母子だけで暮らしたが、幸運の女神が訪れて、何と
    夫に静岡工場転勤の辞令が下りたのだった。  バス−電車−バスに乗り継いで、約1時間掛け
    ての通勤であったが、東京暮らしで慣れているので、他人様が思う程大変ではないと夫は言った。
    預かったツトムくんは1歳になろうとしていて、別れがとても辛かったが、引っ越しにはお父さんが
    有給休暇を取って手伝いに来てくれたのだった。

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     埋め立てと同時に、今は亡き次兄が挿し木しておいてくれたヒメマサキを生垣として植えた。 
     休日の夫は庭づくりに余念がなかった。そして私の学びの物理も「これ位で良いだろう」と言う
     ことになり、英語もbrokenEnglishではあるが夫の簡単な問いかけには返事が出来た。
     数年前にイギリス出身の婦人が主宰する茶話会風の英会話に誘われて参加していたが、
     カテーテルのアクシデント以来中断してしまった。 昭和48年には長男が生まれ家族は4人となる。
  
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     静岡に来てから63歳の定年までには、群馬、犬山、神奈川など単身赴任もあったが
     平成12年に娘が、14年に息子も結婚して家庭を持ち、私たちの2人の暮しがスタートした。
     
     夫との来し方を、駆け足で振り返りながらの1週間、冷蔵庫に貼って覚えた数学、物理
     反発したことも多々有ったが、今は有り難かったと心から思える。電車に乗れば相対速度
     稲妻が走れば、車中の安全性など直ぐ様思い出すし、新聞に掲載される高校受験問題も解い
     てみようと思えるのもあの日の夫のお蔭である。「国語は僕より強いから省こう」と言はれたが
     そんなことは無い、夫から私への恩情のほかならない 。

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     遺品の中から見つけた「えんぴつで奥の細道」は平泉を書き終へて途切れている。
     明日の納骨が済んだら引き継いで結びの地、大垣まで書くことにしよう。
     次頁の「南部道遙にみやりて岩手の里にとまる」に始まる尿前の関、唯なる偶然とは思えない。
     
      エッセイのようなものが書ければ、他人様にご覧いただく日記と言えましょうが
      あまりに内生的な日常を書いてしまいまして、お恥ずかしい限りですが、見守り
      ご覧いただいたことに感謝申し上げます。
                            ふきのとう

            納骨の手筈ととのふ仲の秋    ふきのとう

     *昭和48年に夫は運転免許証を取得する。東京時代に大きな自動車事故(人身事故)を目撃した
      という夫は、車には乗りたくないと言っていたのだが、通勤時のバスの中で眠ってしまい
      家からかなり離れたバス停まで、何回か乗り越してしまっのだった。
      意に反しての免許証取得の様だったが、以来、定年するまで自動車通勤をしたのだった。

     
posted by ふきのとう at 22:31| Comment(6) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

姑から夫へそして私へ

            二枚の座布団

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     1枚目の裂き織りの座布団は元々は夫の生家の炬燵布団であった。
     初めて目にした時、「変わった布ね〜ぇ!」と言う私に、姑が持って帰ったらどうかと言った。
     若かった私は丁寧にお断りした。変わってはいるが貰って帰るほど欲しい物ではないと内心で思った。
     それがどうだろう、姑が亡くなった後に、義兄から色々な物を整理するから「欲しい物」は有るか?
     と問われ「裂き織の炬燵布団」と答えた。一般にも昔のものが珍重されつつある時代、暮らしの
     手帖にも掲載され、雪国の女性たちが精魂込めて織り上げたものでることを知ったのだった。
     長いあいだ使用していないらしく、大そう埃を被っていたが洗ってみると綺麗になった。
     「あの時欲しい」と言っていたら姑も喜んだに違いないと後悔したのだった。  
     我が家でも炬燵布団としては使用せず、藍染めの布で縁取りして座布団に拵えた。

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   残りの布では私のベストを、夫のベストにと思ったがそれには少し丈が足りなかった。

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     2枚目の鶴の柄の座布団は結婚当時、夫が大切に持っていた敷布団、一方に姑の文字で
     「頭」と書いた三角の白い布が縫い付けてあったが、どんな意味を持つのか改めて聞いた記憶もない。
     嫁入り道具の布団を使用したために、使う事も無く長いこと押し入れに眠らせていたが、ある日
     思い切って裂き織の座布団同様、藍染めの布をあしらって5枚の座布団となった。
     夫は裂き織の座布団を大そう気に入ってくれて好んで坐っていた。

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     晩年夫は何をするでもなく、文机の前に座っていることが多かった。

        裂き織に母の温もり秋深む  ふきのとう


     
     
     
posted by ふきのとう at 11:29| Comment(4) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする