2017年09月30日

修羅の新生活

              高槻市大塚の新居
    夫の父が脳軟化症で倒れ、車椅子状態であるため、結婚式は花巻市の実家で
    執り行いたいと、夫の長兄からの希望を優先した。
    静岡からは両親と兄姉と美容師の14人で上野経由、特急≪ひばり≫片道
    9時間を掛けて上京。その頃は家の負債の返済も済み、父は肥育牛20頭、兄嫁は1.000羽の
    養鶏をしていて兄は農協に勤めていた。その他に水田と茶畑で生計を立てていたが
    金銭的にすこしづつ裕福になっていたと思う。鶏、牛の世話を親戚に頼んでの出発だった。

    田舎娘でそれまで銭湯の体験も無い私は社宅に入ると共同浴場であると知って
    昭和42年11月「銭湯...だけは...」と言う私の為に農家の離れを借りての新生活が始まった。
    と此処までは難なく新生活の運びとなったがこの後、艱難辛苦の日々が待っていようとは。

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    夫が両親宛てに書いた手紙の一文に
    「お嬢さん(文面上のこと)は容姿、学歴に対するコンプレックスが多くあるようにお見受け
    致しましたが容姿などは心掛け次第で解決できるでしょう。
    義務教育も受けられない能力は別として、毎日の新聞が読めて、手紙が書ける人ならば立派に
    胸を張って世間を歩けるのではないでしょうか。蛇足かも存知ませんが、普通高校で学びますものは
    歴史とか国語、或いは物理化学のようなものでございます。高校で学びますものは本人が学ぼうとする
    気持ちと努力と誠実が有りましたら機を見、会を造りご自分でで出来るものではないでしょうか。
    そう言う努力も惜しまないようなご家庭にお育ちになられた〇〇さんだとお見受け致しましたが
    いかがでしょうか。

    後に気付いたのだが、この一文のために.....。
    「平面図形、解るよね?」「ああ、直線、半直線、線分、乗線...垂直二等線のこと?」
    「そうそう、さすが!勉強する気有りそうたね!」「....無い訳じゃないけど」
    この曖昧な私の返事がいけなかった。翌日から夫が昼休みに作った問題、微分積分そして
    方程式X+5=12に始まり、関数−変数と変域等々、まるで一対一の授業のような日々が続き
    負けず嫌いの私のことを心得ているのか、少しの正解にも手を叩いて褒めるのだった。
    教え方は至って丁寧であるが、この間の私の辛抱も大変なものであった。
    長女が生まれてもこの授業めいた時間は続き「歩くようになっら大変になるから強行軍だけど
    頑張って」と言はれ、娘を負んぶしながら冷蔵庫に問題を貼り、背中を揺すりながら問題を
    解く日々が2年も続いた。結婚時45.5Kであった体重もこの時39Kにまで落ちてしまった。
    夫は物言いも静かであるし、怒ることはせず、おかずの文句は全く言はず、ある意味では良夫
    私としても当たり所もない。
    大阪に来て覚えた高野豆腐の煮物は夫の好物で「凄い!奥さん腕が上ったね!」と言はれて
    「そ、う、で、す、か、!その中には微分積分関数など一切入れていませんよ!」そして
    「あんなもの!何の役にも立たないわ!」私は思わず泣いて怒鳴った。しばらく不穏な空気が  
    狭い部屋を襲うのだった。

        算術の少年しのび泣けり夏     西東三鬼

     後に俳句でこの句に出会った時、私の大阪時代が脳内を駆け巡るのだった。

     以上、オジサンから彼に、そして夫となるまでを記憶を基に大まかにではあるが記してみた。
     昨日までは日に何度も折れたり、涙したりであったが、来し方を書くために縮んだ脳を刺激する
     ためか、折れないし、泣かないで済むのだ。
     ボチボチ打ちのパソコンだけれど、消しゴム要らずで助かった。
     
     どちらかと言へば夫に比べてabnormalなのは私の方であるから、その後の暮しの
     難解な出来事を綴ってみよう。

         自然数整数無限星河濃し     ふきのとう

    *肥育牛20頭、鶏1,000羽、今では当たり前の数であるが、当時、千羽養鶏といって
     養鶏で採算の取れる養鶏の先駆だった。兄が農協に勤めていたこともあってのことだった。
     肥育の牛も、父が先駆だったように記憶している。父は亡くなる寸前まで牛の肥育をしていた。
     偶にではあるが、牛にも鶏にも餌やりはしたことがある。     
     

     
    
    
   
    
    


    
    
posted by ふきのとう at 12:33| Comment(4) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アルバム

                分厚いアルバム
     オジサンの希望を受け入れて、私は退寮し、家から通勤することになった。
     古巣の理髪室は友人に譲って、職場を国鉄管理局の理髪室に移してのことだった。
     「母親から沢山学ぶことが有るだろうから」退寮して家から通勤出来ないかと言う
     オジサンの希望優先するという、実に素直なところもあったのだ。
     静岡駅の駅長がボーイスカウト連盟の理事であったことと、親しくさせて頂いていることから
     スムーズな再出発となった。今までと同じ土日、祭日休みは勿論のこと、交通費も支給された。

     或る日、オジサンから1冊の分厚いアルバムが家宛に届いた。父母宛の手紙と共に。

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     父母宛の手紙には一通りの自己紹介と、これまでの私との経緯が簡単に書かれていて私の家族に
     賛同の得られる結婚でありたいので、万一意見の相違、或いは私に良縁が生じた場合は
     気兼ねなく良縁を選んでいただきたい事、私との結婚がどうでも良いと言うのではなく
     私が幸福に近づく道であれば、敢えてそれを遮りたくはないこと、たとえそういう場合になったとしても
     婚約までの間、今までどおり、友達として交際させていただきたいと言う内容だった。
     そして岩手の生家が改築中であり、招待できない現状であること、それにはこのアルバムを見て
     頂ければ断片的ではあるが、自分を理解して頂けるのではないかとも記してあった。。
     なるほど、オジサンが生まれてから28歳になるまでが大まかではあるが両親にも
     私にも理解できるものであった。
     私にもアルバムはあるが、オジサンのアルバムの比ではなく貧弱なものだった。
     後に私が子供たちのアルバムを丁寧に拵えたのは、この時の衝撃が切っ掛けだった。
     そんな子供たちのアルバムも、今は果たして...DVDの進出でコンパクトになったようだ。

     


     

   
posted by ふきのとう at 10:29| Comment(0) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

続 生い立ち

               21歳は幼稚である  その2
    喫茶店から出て平井君を追いかけようとしたが、既に平井君の姿は見えない。
    後ろにはオジサンの気配もある「すみません、立ち話で良いですから僕の話を少し聞いてください」
    「あ!あ!オジサン、いったい、何が言いたいの」と思いつつ、にっこり笑って「はい、何でしょう?」
    本意ではないが兎も角笑顔で、身についてしまった接客態度で振り返る。
    オジサンの話を私なりに纏めると、今日、理髪室でトランスを直していた時、耳にした工場長との
    受け答えが若い女の子にしては見事で、論理的にとても正しく、その場で拍手をしたいと思った
    と言うのである。そして「もう少し落ち着いて話がしてみたいと思いまして」と言うのだ。
    今日の出来事は1回2回までは許せたが、3度目となると許せなかったこと、上司のいう事なら  
    否応なく通ると思っている精神が気に入らなかったことを告げ「でも頂いたメモに今日は振り回さ
    れました。それにしてもメモに書いてあった、「デート申込」はやり過ぎではないでしょか?」と
    思いつく儘に答えて「寮に帰ってしなくてはならない事がありますので失礼します」と言って別れた。
    
    今振り返るに、私の21歳は非常に幼稚で、良く言えば屈託は無いが思慮もない。
    それまでに比べると3度の食事は社員食堂、土日、祭日、ゴールデンウィーク
    その上、盆と正月の連休もあり、安定した給料もありで存分にスカウト活動も出来た。
    休暇を願いを出て通過し、朝霧ジャンボリーに1週間参加した折には美智子妃殿下が眼前に。
    「なにをお作りになるの?」ビロードのような声で尋ねられた。
    「はい、トマト入りのハムエッグです」と答えると「きっと美味しく出来るはね」と。
    そして私たちの団に歓声が上がった。勿論妃殿下が次の団に移動していった後のこと。
    新天地での7カ月、女子寮での暮らしは快適そのものであった。
      
    しかしその一方で、「部長お断り」の1件は、尾ひれまで付いて社内の事件に発展したらしい。
    簡単には後継者も見つからず、打ち首寸前で継続の運びとなった。
    そんな或る日、理髪室のカウンターに私宛の封書が置いてあった。見覚えのある文字
    そう、あのオジサンから「本社からの長期出張が終はり、東京へ戻りますが、時々
    手紙を書かせて頂いてもいいでしょうか」と記してあった。

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     携帯電話は勿論のこと固定電話のある家も少ない時代において
     疎通手段は郵便の他無かったから、東京−静岡、次の転勤先の大阪-静岡と
     3年間の間にオジサンから届いた書簡は今も私の手元に残されてある。

     セピア色の往復書簡夜半の秋     ふきのとう




      
posted by ふきのとう at 09:15| Comment(0) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする