2017年10月05日

永遠の故郷言葉

               夫と故郷を繋ぐ言葉
    5年間暮した大阪、そして夫の生ま故郷、私の生まれ故郷(今暮している)友人知人たちにも故郷がある。
    皆、故郷の言葉(国言葉)をどれほど大切に思っているだろうか。先づ私はどうであるか、
    沢山の国言葉の中で生まれ育ったはずでありながら、今では共通語を話すことの方が多い。
    ところが夫は違った。生家に於いて私以外の人と話す時、その殆どをふる里言葉で話すのだった。
    初めて夫の生家を訪ねた時のこと、花巻駅構内で、何十年ぶりに逢ったと言う知人との会話には
    共通語は一切なかった。私はこの時、生まれて初めて生の東北弁を聞いたのだった。
    只々、唖然としてタクシーを待っている時にこう言った。
    「言っておきたいことがあるんだけど、家に帰ったら共通語では喋らないからそのつもりでね」
    続けて「家のみんなが話しかけても通じないと思うから、兎も角にこにこしててよ、肝心なところは
    僕が伝えるからね」そして「どんな顔でも笑ってれば可愛いから(まま)」事実なのだから私は頷いた。
    夫の言うとおり難解な部分もあったが、それはそれとして、驚くこともなく家族の話に笑って頷いていた。
    途中、夫に(事実上は結婚前)呼ばれて振り向くと、手をこまねいている。席を立って夫言のうままに
    就いて行くと、庭の釣瓶井戸の端でこう言うのだ「ねえ、笑っててと言ったけど、にこにこし過ぎだよ
    馬鹿みたいに見えるから少し加減して」さすがの私もこれには、返事のしようもなかった。
    そして長兄には、「弟と結婚するんだからあなたも此の土地の言葉を覚えていただきたい」と言っていると
    夫から私に伝えられた。夫の父が亡くなり娘と3人で帰郷した時、父親の話し言葉に幼いながらも
    何かを感じ、私にしがみ付いて離れなかったが「お父さんはタカシなのにみんながタカスって
    いうんだもん!」と言って大泣きしたことがあったが、大きくなってからやはり父親に「花巻では
    にこにこしてなさいよ」と言はれたと言う。先日、夫の葬儀に参列してくれた甥の1人が
    「おじちゃんは偉かったよな、花巻では一切共通語を話さなかったもんね」しみじみ言った。
    やはりそう理解していてくれたのだと思うと胸が熱くなった。
    郷里以外では夫が東北出身だと感じる人は1人もいない程、訛も無く、共通語に徹していて
    大阪弁も静岡弁も聞いたことはない。ひたすら故里に畏敬の念を抱いていたに違いない。
    余談ではあるが、昭和40年時代の事であって、今の若い人たちはみな共通語で話している。
    何処の土地にも共通語に替え難い方言がある。当地にも「ひんずらしい」「ごせっぽい」
    「おひんぶる」「おんぞくたい」等々、共通語には代えられない、横綱級の方言だ。
    「言葉は国の手形」死語となってしまうようで寂しい。

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夫のアルバムから写しだしたのでぼやけてしまったが、この釣瓶井戸は
     俳句の題材として大変お世話になった。

         水汲むは雪女かも釣瓶井戸     ふきのとう
    
    
posted by ふきのとう at 07:23| Comment(4) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月04日

大きな勘違い

              願えば叶う...(とは言うものの)
   目出度く電検合格、ここで慎重な夫に大きな勘違いと誤算が生じてしまう。
   電検で得た資格を会社に申請すると、特殊技能手当が月額5,000円付くと言うのだ。 
   昭和44年の5,000円は概算で現在の20,000円位であろうか。。
   「欲しいものをこの紙に記して手に入ったら1つづつ消していこう」と夫が言った。
   食卓の上に出された紙に書けと言うのだ。忘れもしないが私は「打ち出し鍋」と先づ書いた。
   すると夫は「おいおい5,000円だよ!希望がちいさいねぇ、指輪だって夢じゃないよ」と
   言いながら、確か夫はペンタックスのカメラ、新しい製図用具などと書いた。
   指輪など興味の無い私は台所用品の色々を書いた。そして夫の机の硝子盤の下に大切に挟んでおいた。
   待てど暮らせど希望の品物を買うことにはならなかった。奮闘努力の甲斐も無く手当は付かなかった。
   後に夫の大きな誤算であったことが判明した。何でも叶う夢と叶わない夢が現世にはあるようだ。
   とは言うものの、大金を得る出来事が起こった。社長の長男が結婚するに当たり「支度金」として
   40,000円が支給されることになったのだ。黒のダブルの背広、慶事用の白いネクタイとワイシャツ
   そして、礼装用の黒い靴、事細かに指定されていたが、靴だけ新調すれば後は整っていたので
   靴代金6,000円のみの出費で我が家は済んだ。夫は自分は何も要らないからと言って「鍋」を買てくれた。
   私を配偶者として選んだ誤算以外、最初で最後の夫の誤算だったのたった。

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        刻刻と迫る納骨返り花    ふきのとう

    祭壇のある座敷から眼を外に向けると、山法師の「帰り花」が咲いていた。
    花も小さく、盛りのそれとは違い侘びた佇まいを美しいと思った。
   
posted by ふきのとう at 15:26| Comment(2) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

近づく七七忌

                  霊供膳
     今週の土曜日が夫の七七忌、夫が黄泉に発ってから46日が経つことになる。
     本来、3ヶ月をまたがない法要が最善らしいが、お世話になる寺の住職も
     「ここに生まれた方じゃないから、少しでも長くお宅にいられたらどうか」と。
     何より家が好きな夫だから二つ返事でそうすることにしたのだった。毎日の霊供膳も残り2日余りとなる。
     今朝は雨音で目が覚めたのが午前5時、ごみ出しを終えて霊供膳の用意をする。

                冬瓜のはごろも煮(私流)
     清水市にある工場の鮪のフレークだが、子供の時分から食べている味なので
     口に合う。1缶ごと使って、好みで調理すればとても美味しい。
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     「いい味しているね」「はもろごさんのお蔭です」冬瓜を煮た時の何時もの会話だった。
     庭にあるちょっとした緑を添えると、とても喜んだのだった。遺作の皿に盛りつけて。

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     1カップ炊いただけだが、栗おこわも美味しく出来て、その他は
     家にある有り合せの煮物、糠漬けの胡瓜など...30分位い進ぜた後に私が頂く。

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      毎年2人で剥いた栗も今年は1人で剥くことと相成った。
      沢山の栗剥きをよく手伝って剥いてくれたし、何より甘党だったから
      渋皮煮の出来上がるのは楽しみにしていたのだった。今年は栗を剥く
      気力も湧かなかったが、毎年届けてくれる友人が今年も届けてくれたので少しだけ渋皮煮にした。

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        雨しづか去年は二人で剥きし栗      ふきのとう
        雨の日のことに夫恋ひちちろ虫      ふきのとう
     
posted by ふきのとう at 08:25| Comment(2) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

ぞうさん

              何故か「なぜ」がつくぞうさん
   昭和25年以降に生まれた子供達の通過点である、まどみちお作詞の「ぞうさん」の歌を
   歌う娘には面白い特徴がみられた。「おはながながいのね」の歌詞の頭に必ず「なぜ」が付き
   末尾は「ね」ではなく「の」になるのだった。「ぞうさんぞうさんなぜおはながながいーの」と。
   それは間違いだと教えてもいつまでも直らなかった。
   そんなことも思い出して、昨夜は夫や娘にすまないことをしたと思うと、涙が出て明け方まで眠る
   ことが出来なかった。幼い子供を知らぬ間に残されてしまった夫の困惑も今なら解る。夫と娘と対面
   した時の記憶も、謝った記憶も未だに思い出せない。
   その時の事情を知っていたかもしれない人たちは皆、鬼籍に入ってしまい、母の付けていた日記
   には 記してあったかもしれないが、処分してしまったから全容を知る術は全くない。
   この後、住まいを淀川の堤に近い新築の2戸1建てに移した。「2戸1建」とは、玄関は独立して
   いるが、隣とは壁で仕切られている建築で、戸建てに比べて家賃も安いのだった。新築の2階建
   だから、見た目は悪くないが解りやすく言えば棟割長屋みたいなものだ。
   新築で上下使えて、広さもあるこの家を借りてくれたのは夫の最大の配慮だったが、それまでの
   誰からも干渉されない暮らしとは違い、生活音は良く響くし、否応なしに自分と隣人の暮らしぶりが
   見えてしまうのだった。ご理解いただけるだろうか、娘を叱るときも顔の表情で叱ることを。
   良く通ると言はれていた私の声は少し大きな声を出せば、隣へ筒抜けてしまうのだ。    
   「〇〇ちゃん昨日はどおしはった?ママに叱られはったね!」と言われる始末.「お宅はママ、うちは
   母さんだわい.....。」
  
   ここでの暮しは夫も「選択ミスだったなーぁ」と、時々ぼやくのだった。以前にも触れたが
   ここに移って間もなく清水市が出身と言う夫婦の、生後40日目の赤ちゃんを約1年間あずかることになる。
   母親が幼稚園教諭とあって、私に我が子を託すことに大らかで、少々の怪我などは当たり前と
   真実思っている風に私には見えたし、以前住んでいた農家の離れと小川を挟んで隣に暮らしていて
   広い大阪で、同じ県の出身と言う事に親近感もあり「お願いすることが出来れば子供を産みたい」
   と言うのだった。夫も私も快諾して、その後、生後4ヵ月の新生児が我が家にやって来たのだった。
   平成の今では信じられない昭和45年の1月の出来事だ。この年大阪で万国博覧会が開催された。
   これは好運をもたらしてくれた。2人の子守で空いている時間は殆どないから、夫もまた新しい事を私に
   教えようとはしなかった。ただ預かった赤子の母親の研修会、研修旅行には父親も来て我が家に
   宿泊するのだった。夫と同じような科目を選択していたらしく、よく気が合いガンマ、ベッセ
   などの関数を楽しそうに話していて、話に加はれない私の憩いの時間となったのだった。
   今度娘にはアルバムを持って来てもらおう。懐かしい大阪時代最後の刻を振り返ってみたい。

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    来客の誰もが褒めてくれる秋海棠、毎朝手折って夫に手向けている。

       秋海棠一枝は供花として手折る      ふきのとう

     
posted by ふきのとう at 12:51| Comment(6) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夫の電検試験

             少し戻って
    43年に娘が生まれると同時に夫が電検の試験を受けると言い出したことがあった。
    既に3級は学校を卒業と同時に得ていて2級1級と挑戦すると言い出した。
    夫の勉強最中に娘が泣いたりぐずったりするとイライラするのが目に見えて解る。   
    そんな時、夜でも娘を抱いて外に出るのが常だった。娘の月齢は5ヵ月足らずなのに。
    言葉は悪いが気狂いじみていると内心思ったが、その翌年の4月の試験までは我慢しょうと思った。

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    目出度く合格したことに私もホッとしたのだが、問題はこの後に起こってしまった。
    日常の買い物は高槻市内で済ませたが、阪急京都線で京都の四条河原町へ出掛けることが良く有った。
    梅田に出るよりも近く、地下にある駅で下車すれば高島屋、藤井大丸まで数分で行けて便利であったし
    何より梅田よりゆったりしていて好きだった。「電車が止まっているのに動いて見えてふしぎね〜ぇ」
    私の不用意な発言が夫を刺激してしまった。「この現象は相対速度って言ってね」で始まり、私には
    不可解な論理が電車に乗っている間続くのだ。内心「はいはいはい」と思いながら聞いたふりをする。
    家に着くと「紙と鉛筆」がはじまり、ご飯の支度を急ぎたい私に「飯なんてね、1回位い食べなくたって
    人間死にゃあしないから大丈夫、落ち着いて聞きなよ」いつもは少し遅れても「ご飯ご飯」と騒ぐくせに。
    そして「僕も1級を目指して頑張るから一緒にどう?主婦も覚えておいた方がいい物理があるから」
    こうなるとにっちもさっちもなのだ。夫の期待には応えられないことを前提に渋々条件を飲んだ。
    落雷時の車の中の安全性、家に届く電波、気体と体積の反比例、絶対温度、この時を切っ掛けに
    圧力鍋は今では見るのも嫌になってしまった。そして私は娘を置いて家を出してしまう。
    この家出した日の詳細が今どうしても思い出せない。夫が娘とご機嫌で遊んでいた記憶しかない。
    実家に着いたのはその日の夜、ここははっきりしている。すっかり痩せてしまった私を見て
    母が仰天したのも記憶にある。「そう、解った、家に帰っておいで」と言った。
    そして「あの人なら大丈夫、お前さんを安心して任せられると思ったんだけどね〜ぇ」と。
    姉達が良く言っていた「嫁入り支度が軽くて離縁させられるのは親の責任だが、親兄妹を努めることが
    出来なくての離縁は自分の責任だから家には帰って来るな、前には海があるからそっちに行くように」と    
    嫁入り前に母からきつく言はれたと.....。時代なのか私は言はれた覚えはない。
    予期していた説教も無く、すんなり「帰っておいで」と言はれたことにほっとしたのだが....。
    近くの店から仕出してもらった鰻重を泣きじゃっくりをしながら食べると「おお、おお、そんなに
    悲しいかね、大阪に置いてきた〇〇はもっと悲しいでしょうよ」と孫の事を言うのだった。
    翌朝、何とか気を取り直して大阪に戻った私と、行き違いで夫と娘が実家に着いた時、父親の
    背中で娘は泣き疲れて眠っていたが、目が覚めると涙目で「ぞうさん」の歌を歌ったと、随分
    後になって、母から「忘れることの出来ない思い出」だといって聞かされたのだった。
    この時の記憶が娘に有るか否か、未だに怖くて聞けない。

        涙目で歌ふ「ぞうさん」秋入日   ふきのとう
    
    娘は2歳になっていただろうか。納骨の日の後で思い切って聞いてみよう。
    もしも記憶にあったならきちんと謝ろうと心からそう思う。

    時の通産大臣が大平正芳であったこともあの時以来、私の記憶から離れない。
    
    


    
      
    
    
posted by ふきのとう at 00:58| Comment(4) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

折々のできごと

                 妊婦服 
     ここからは、50数年間を振り返り、折々の出来事で文章に纏められるような事を記そう。
     妊婦用の既製服が結構な値段で、しかも着用は数ヵ月であるから買のも迷うところだ。
     11月の出産予定だからいつまでも夏の簡単服では居られない。
     縫う事は好きだが製図は.....。ところが有り難い偶然があった。
     或る日の新聞の家庭欄に「簡単なマタニティドレス」が載っていたのだ。
     夫が仕事で使うドラフティングテーブルが何時も拡げてあるではないか。
     この型紙も製図できるに違いないと思ったものの「教えてあげるから画いてごらん」と
     言うだろうな、それでは面倒と思ったが、そうなったらそれで良し、帰宅した夫に
     新聞を見せて、その旨頼むと、意外と簡単に引き受けてくれて、その2日後には
     千鳥格子にヨークの部分だけ無地を配して自分でも驚くほど上手く仕上がったのだった。
     「おお、なかなかやるね!フグの立ち泳ぎさん!」この「フグの立ち泳ぎ」は今でも話題に上る。
     冗談とは無縁な顔をして誰より冗談が多い、しかしその殆どがブラックジョークである。
     或る日、「ねえ!離れて歩こう、フグを立泳がせた犯人みたいで嫌だから」ぬけぬけ言った。
     勿論冗談であるが、毒にはなっても決して薬にはならない「なに言ってやんでぃ!正真正銘の真犯人
     じゃねぇか!」

     産院は隣の奥さんに勧められてバスで行った。長い長い信号を待っていると、信号を渡らないで
     済む所にも産院の看板が見えるではないか。受付に行くと「産科は先月閉院しましたので外科のみ
     です」と言うではないか。受付を出ようとすると「老先生がお話があるそうです!」呼び止められた。
     分娩室はあるが、新生児室、沐浴室の設備は無いが「うちのお風呂、赤ちゃんも私の家でよかったら」
     受け入れると説明が有ったので、「お願いします」と即答した。私から事情を聴いた夫は少し
     躊躇していたが、私は何ということは無い寧ろ安心していた。だがこの産院が後に私と娘に
     沢山の好運を運んでくれたのだった。医院に続く先生のお宅で老先生に沐浴をしてもらい
     外科医である息子さんの奥さんが着替え、オムツ交換をしてくれて、時々外科病棟にいる私の所に
     連れて来てくれるのだった。この時、実家の母は生死を彷徨い入院していた。流産を気遣って
     私には知らせが無かったのだが、分家の叔母から「なるべくなら来た方が良い」旨のはがきが届き
     喪服を用意して私が先に帰郷し、追いかけるように夫も来た。お蔭様で母は生還したが、私の家に
     助っ人に来ることは叶わず、生まれて10日目の嬰児と2人、タクシーで平日の退院となった。
     実家の父からは家政婦を頼むようにとお金が送られてきたが、子供の物を買いたいからと
     それは私がしなかった。
     赤子の沐浴は浴槽の中で夫が赤子を抱き、外にいる私が洗い、終いにシャワーを掛ければ良いと
     老先生の教えに従った。
  
     湯を沸かすことぐらいしか出来ない夫は自分の3食を、社員食堂で済ませて帰宅する。
     退院後、食事らしい食事の摂れない私の母乳は止まり、近くの八百屋さんに行った時は
     久しぶりの太陽に眼も眩み、足元も覚束ない状態で、近所のおばあちゃんに送られて帰った。
     「そうか、君の食事のことは気付かなかったなーあ」と夫。
     この年の暮れ私は腱鞘炎になりオムツは愚かミルクの缶も開けられず、生後2ヶ月足らずの
     赤子を抱いて最寄の治療院に通った。私の治療中は待合室のおばちゃん達が代わる代わる
     娘の面倒を見てくれて、オムツまで取り替えてくれた。昨今世間で話題の「大阪のおばちゃん」達だ。
     あの頃を思い出すと目頭がうるむ。

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     娘も歩き初め、静岡の高校の数学の平均点を調べてみたが「この位で良いだろう」という事で
     数学が終わり、「毎日でなくてでいいから、物理と英語をしょう」来た来た、こう来ることは
     解っていたので返事は用意しておいた。通信教育ではあるがスクーリングも休まず通いそれ程
     悪いテスト結果ではなかったこと、これからは全力で育児に専念したいことを、いつもの
     がらっぱちを抑えて、静かに伝えた。後に「あの時は堪えたね」と苦笑いしていた。
     産院からは老先生のお誕生日に、現役時代最後に取り上げた赤ちゃんと言うことで、最初に
     取り上げた赤ちゃんだと言う、50歳は超えていただろう、京都に住むお坊さんと一緒に招待され
     大阪時代の約4年間、毎年招待状が届いたのだった。家計をやり繰りして老先生の好物の羊羹を
     手土産に訪ねた。縫いぐるみ、ドイツの木製の玩具などを用意して婦長さんを始めその時の
     スタッフの方々が待っていてくれるのだった。娘のアルバムにはその時の様子が細かく写ってい 
     いる。
     写真の玩具は特にお気に入りで、後に生まれた弟、そのまた子供も愛用し、我が家の柱に今も
     掛けてある。

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     嫁いだ娘の義理の叔母から頂いた折り紙の蓮花、ここまで折れば芸術作品だ。
     祭壇に置いているが訪れた人の眼を惹きつける。

         折り紙のはじめ三角秋ともし      ふきのとう

     
   
     
     
    
posted by ふきのとう at 10:17| Comment(6) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月30日

修羅の新生活

              高槻市大塚の新居
    夫の父が脳軟化症で倒れ、車椅子状態であるため、結婚式は花巻市の実家で
    執り行いたいと、夫の長兄からの希望を優先した。
    静岡からは両親と兄姉と美容師の14人で上野経由、特急≪ひばり≫片道
    9時間を掛けて上京。その頃は家の負債の返済も済み、父は肥育牛20頭、兄嫁は1.000羽の
    養鶏をしていて兄は農協に勤めていた。その他に水田と茶畑で生計を立てていたが
    金銭的にすこしづつ裕福になっていたと思う。鶏、牛の世話を親戚に頼んでの出発だった。

    田舎娘でそれまで銭湯の体験も無い私は社宅に入ると共同浴場であると知って
    昭和42年11月「銭湯...だけは...」と言う私の為に農家の離れを借りての新生活が始まった。
    と此処までは難なく新生活の運びとなったがこの後、艱難辛苦の日々が待っていようとは。

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    夫が両親宛てに書いた手紙の一文に
    「お嬢さん(文面上のこと)は容姿、学歴に対するコンプレックスが多くあるようにお見受け
    致しましたが容姿などは心掛け次第で解決できるでしょう。
    義務教育も受けられない能力は別として、毎日の新聞が読めて、手紙が書ける人ならば立派に
    胸を張って世間を歩けるのではないでしょうか。蛇足かも存知ませんが、普通高校で学びますものは
    歴史とか国語、或いは物理化学のようなものでございます。高校で学びますものは本人が学ぼうとする
    気持ちと努力と誠実が有りましたら機を見、会を造りご自分でで出来るものではないでしょうか。
    そう言う努力も惜しまないようなご家庭にお育ちになられた〇〇さんだとお見受け致しましたが
    いかがでしょうか。

    後に気付いたのだが、この一文のために.....。
    「平面図形、解るよね?」「ああ、直線、半直線、線分、乗線...垂直二等線のこと?」
    「そうそう、さすが!勉強する気有りそうたね!」「....無い訳じゃないけど」
    この曖昧な私の返事がいけなかった。翌日から夫が昼休みに作った問題、微分積分そして
    方程式X+5=12に始まり、関数−変数と変域等々、まるで一対一の授業のような日々が続き
    負けず嫌いの私のことを心得ているのか、少しの正解にも手を叩いて褒めるのだった。
    教え方は至って丁寧であるが、この間の私の辛抱も大変なものであった。
    長女が生まれてもこの授業めいた時間は続き「歩くようになっら大変になるから強行軍だけど
    頑張って」と言はれ、娘を負んぶしながら冷蔵庫に問題を貼り、背中を揺すりながら問題を
    解く日々が2年も続いた。結婚時45.5Kであった体重もこの時39Kにまで落ちてしまった。
    夫は物言いも静かであるし、怒ることはせず、おかずの文句は全く言はず、ある意味では良夫
    私としても当たり所もない。
    大阪に来て覚えた高野豆腐の煮物は夫の好物で「凄い!奥さん腕が上ったね!」と言はれて
    「そ、う、で、す、か、!その中には微分積分関数など一切入れていませんよ!」そして
    「あんなもの!何の役にも立たないわ!」私は思わず泣いて怒鳴った。しばらく不穏な空気が  
    狭い部屋を襲うのだった。

        算術の少年しのび泣けり夏     西東三鬼

     後に俳句でこの句に出会った時、私の大阪時代が脳内を駆け巡るのだった。

     以上、オジサンから彼に、そして夫となるまでを記憶を基に大まかにではあるが記してみた。
     昨日までは日に何度も折れたり、涙したりであったが、来し方を書くために縮んだ脳を刺激する
     ためか、折れないし、泣かないで済むのだ。
     ボチボチ打ちのパソコンだけれど、消しゴム要らずで助かった。
     
     どちらかと言へば夫に比べてabnormalなのは私の方であるから、その後の暮しの
     難解な出来事を綴ってみよう。

         自然数整数無限星河濃し     ふきのとう

    *肥育牛20頭、鶏1,000羽、今では当たり前の数であるが、当時、千羽養鶏といって
     養鶏で採算の取れる養鶏の先駆だった。兄が農協に勤めていたこともあってのことだった。
     肥育の牛も、父が先駆だったように記憶している。父は亡くなる寸前まで牛の肥育をしていた。
     偶にではあるが、牛にも鶏にも餌やりはしたことがある。     
     

     
    
    
   
    
    


    
    
posted by ふきのとう at 12:33| Comment(4) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする